| 江村夏樹さん(作曲家・ピアニスト)からのメール。 許可を得て転載させていただきました。 江村さん、ありがとうございます。 |
朝比奈尚行さま 『うたのエリア-1』出演、制作の皆様 以下、ぼくの個人的な話題から『うたのエリア-1』の感想に移っていきます。 ぼくは自分では「ヌーディティの問題」と言ってるんですが、気持のどこかにつまずきがあると、公開パフォーマンスの場でも、私的コミュニケーションの場でも、いちいちのコミュニケーションでものが言いたい分だけ言えず、不発弾を抱え込むことになります。 自分のセックスを受け入れるときに、自他に対する被害妄想を持っていたりすると、結果的に自分を傷つけることになるので、06年、07年はそれが公私共に不快でした。 1回だけ、御喜美江さんのコンサートで、ちびアコーディオンを弾きながら踊ったことがあります。 ピアニストとしては、ヨーロッパ音楽の文脈にのっとって、なぞって弾くことが、さっきの「ヌーディティの問題」と背反するような現実問題にぶつかることがあり、そのときにはヨーロッパを優先する必要から、どうも自分のオリジナリティに不整合や軋みが生じて、あまり経験したくない緊張とつきあって弾きました。 『うたのエリア-1』を観にいきましたが、極力、「ヌーディティ」を邪魔するような被害妄想をとっぱらって観にいきましょう、ということにしました。 去年の夏に、ブラジルのパウロ・コエーリョという作家(朝比奈さんと同年だと思います)の『11分間』という長編小説を読んで、これもセックスを取り上げた小説で、『うたのエリア-1』と共通項があるな、と思いました。 断片的にでもストーリー展開があると、演劇の1時間や映画の2時間に飽きないで付き合っていられるのではないでしょうか。 これが、2時間の大管弦楽曲だったりすると事態は変わってくると思います。先代の観世銕之丞(静雪)も、誰もベートーヴェンの交響曲を「ベートーヴェン、ベートーヴェン」と思いつめながら聴いてはいないのではないか、能も同じで、きれいな衣装を楽しむとか、ミュージカルのようなものとして観ていいんですと書いています。 独立した演劇ではない、完結したコンサートでもない、始まりと終わりは開いていて、それは、はじめは構成上の破綻のようにもみえましたが、終演後のトークがある場合は、トークの終了までを『うたのエリア-1』のステージと見なすことができると思います。 「いいから取っちゃえよー、そうすれば全部出てくるのに」って、吉本隆明が言ってますけど、それは小説の世界では、文学作品を覆っている薄い膜のようなものを取っ払うことは可能なことだと吉本さんは言ってますけど、音楽ではどうなんだろうか。 『うたのエリア-1』では、観客に対する媚や衒いがありませんでした。 演じられた演劇断片は、あのくらいの軽さでちょうどいいのかとあとで思いましたが、観ている最中は、もう少し突っ込んでもいいのではないかと思うときもありました。トータルに言うと、あの軽さが要所要所に挟んであるから全体のバランスが取れていたところがあるのではないでしょうか。「ビビメソ」とおっしゃっていましたが、エスキス、または素描という感じがしました。それが物足りなくなかったのは、音楽とのバランスと、役者の選びによるところがやっぱり大きいと思います。 音楽と演劇の交点のことを考えながら観てましたが、これはアタマで掘り下げる問題ではないような気がします。っていうか、こういうところに神経を使いすぎると、総合的な楽しさを削いじゃいますよね。ある意味では、計画外の破調や破綻が必要だともいえると思います。メシアンからの影響というようなシステマチックなことは、おおかたの観客にはわからないところもありそうにみえ、ぼくはシステムを強調しすぎないほうがいいと思います。 書くことはまだありそうですが、何がぼくに作用したか、お伝えしようと思いました。 おこがましいことを書いて失礼しました。お読み捨てください。 江村夏樹
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